X線による手荷物検査、旅行者が並ぶチェックインカウンター、新聞や軽食を販売する売店、ターミナルの窓から見える滑走路に並んだ旅客機。
我々にはなじみ深い空港の風景。
ただ一つ違和感を感じるとすれば、ジャレド・ダイアモンドとその他の数人の旅行者を除けば、この空港にいる全員がニューギニア人(パプワ人)という点であろう。
ニューギニア島は大航海時代にはポルトガル人やオランダ人が訪れていたが、彼ら西欧人の活動は沿岸部に留まり、奥地は未踏の地であった。
時代が下り1931年、領土獲得のため奥地に足を踏み入れたオーストラリア人によってニューギニア人は「発見」された。
当時のニューギニア人は外界とは孤立した生活を営んでおり、石器を使用する古式ゆかしき伝統の中で生きていた。
生まれて初めて出会った西欧人を、恐怖におののいた目で見つめる彼らの当時の写真が残っている。
1931年当時のニューギニア高地人社会には時計や電話、クレジットカード、コンピューター、エスカレーター、航空機など現代の技術は存在しなかった。
それどころか文字も金属も貨幣も学校も中央政府すらもなかった。
それが今や読み書きやコンピューターの使い方を覚え、航空機まで運航できるようになっているのである。
今日の世界に住む我々が、1万年余の年月をかけて農耕を始め、国家を形成し、徐々に進んできた道のりをニューギニアの人々はたったの75年で駆け抜けてきた。
75年の年月が変えたのは航空機を運航できるようになっただけではない。
まず空港に居る人には白髪の老人が散見された。
それまでの伝統的な社会では平均寿命が短く、老齢になるまで生きる人は珍しかった。
また残念ながら太ったニューギニア人も多い。
1931年当時のニューギニア人は誰もが痩身で筋肉質だった。
当時は無縁だった糖尿病や高血圧、心臓発作、癌などに現代ニューギニア人は苦しめられている。
それから空港に居るニューギニア人たちの容貌は実に多様だった。
みな肌の色が黒く、髪が縮れている点は共通しているが、南部沿岸の低地人は背が高く、顔が面長だ。
高地人は背が低く、顔の横幅が広い。
島嶼部と北部沿岸の低地人はアジア人にどこか似ている。
1931年当時ならこれだけ多様なニューギニア人が一堂に会することはなかった。
彼らは生まれた土地から遠く離れた場所へ移動することは稀だったし、見知らぬ他人は非常に危険な存在だった。
75年の年月の差異は他にも挙げきれないほどある。
これらは現代社会に生きる我々には至極当然のことだが、人類の歴史から見たらほんの最近のものだ。
人間の祖先がチンパンジーの祖先とたもとを分かったのが約600万年前。我々が当たり前だと思っている上記の現代的特徴は、1万年ほど前にようやく現れた新しいものである。
我々が1万年かけて歩んできた道をニューギニア人は75年で経験した。
しかし1万年の年月も人類全体の歴史からすれば大変短い。
我々は最近になって急速な変化に見舞われているのだ。
一大センセーショナルを巻き起こしたジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』。
彼の新作『昨日までの世界』をただ今再読中。
大変おすすめの本なので個人的に注目した箇所を紹介したい。
〈参考資料〉
〈関連記事〉
【文化人類学】伝統的社会とは何か【昨日までの世界②】
【文化人類学】空間と境界、それと交易【昨日までの世界③】
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